石神井井川の水脈の集まる、いにしえの水の都であった王子地区は、良質の水を求めた中世の豪族豊島氏の軍事拠点として発達し「武蔵の国の豊島郡」と呼ばれていました。豊島氏は平安時代より室町中期にかけて、地元武士団を率いて巨大な勢力を誇った一族で、その支配力は現在の北区から、文京区、荒川区、豊島区、板橋区、練馬区、台東区まで及んでいました。
 この豊島氏は熊野信仰を深く受容しており、紀州熊野より若一王子神社を勧請しました。この若一王子の名前が王子の地名の起こりであるとされています。 また、飛鳥山の名は飛鳥神社が由来ともいわれていますが、こちらも紀州、熊野に所在する阿須賀(あすか)神社に連なります。
 
      豊島氏の居城跡として伝わる
現・平塚神社(北区)
 
   
 
   しかし飛鳥山そのものは江戸の初期までは荒れた雑木林でした。
 享保元年(1716年)に八代将軍となった徳川吉宗が、紀州から江戸城に乗り込むにあたり、日光御成道(岩槻街道)を通ったところ、紀州に因んでつけられた地名を目にしたことが、王子が脚光を浴びるきっかけになったと言われています。吉宗は民情視察に名を借りての鷹狩の折にもたびたび馬を駆っては王子飛鳥山を訪れ、石神井川を故郷紀州の音無川になぞらえて命名するなど、とりわけ王子飛鳥山に目をかけていたようです。
 
      今の音無川(北区)
   当時江戸では上野の山が唯一の花見の場所でしたが、寛永寺の門主が皇族一品親王であり寺院境内でもあったことから、放歌高吟・歌舞音曲は禁止、時間も日中のみということで、暮れ六つの鐘がなると同時に門を閉ざしてしまう厳しさでした。市民の楽しみである夜桜見物ができるようにという吉宗の配慮で、飛鳥山をはじめ、広尾、向島の隅田川堤に桜が植樹され、新しい桜の名所となりました。同時に水茶屋の建設も許可され、江戸市民への行楽の場としての飛鳥山が誕生しました。これは今でも吉宗の善政の一つとされています。
 こうして全山満開の桜となった飛鳥山を、家来や大奥の女たちを引き連れた吉宗が訪れたのは享保一八年(1733年)のこと。吉宗たち一行は歌を書いた短冊を桜に結び、存分に遊興した…あるいは、少々はめをはずし大騒ぎをした…などの記録がさまざまな文献に残っています。
   また、寛政(1789〜1800年)の頃には王子の稲荷神社が江戸市民の間で人気となります。王子稲荷神社は関東の稲荷総社といわれており、火難除けと商売繁盛にご利益があるとされています。この稲荷神社の参詣客向けに、扇屋・海老屋が縁台に緋毛氈をしいてをしいて卵焼きを出し、これもまた王子の名物となりました。
 明治6年には、東京へ都を移した新しい明治政府より、日本にも公園をつくるべきという太政官布達が発令され、東京では上野、深川、飛鳥山、浅草、芝の5か所が5公園と定められました。
 このように飛鳥山は、江戸期から近代にかけて市民の行楽地として実に重要な地位を占めていました。
 
      今の王子稲荷境内(北区)
 
    

   飛鳥山は、実業家、渋沢栄一にも縁があります。埼玉県生まれで現在の深谷市の出身である渋沢栄一は、ご承知のように銀行を興し、無数の産業を育て上げ、近代日本の産業基盤を築き上げた偉人の一人です。
 埼玉県では郷土の英雄とされていますが、実は明治34年から昭和6年までのおよそ30年間、渋沢栄一は飛鳥山に屋敷を構え、91歳で亡くなるまでの晩年を過ごしました。渋沢翁が居住していた間、国内はもとより、海外の要人なども多数この地を訪れており、飛鳥山は現在で言うところの情報発信基地だったと言われています。
 
旧・渋沢邸(現・青淵文庫/北区)
   また渋沢栄一は自身の居を定めただけではありませんでした。明治6年(1873)、石神井川の豊富な水に目を付けて、後に王子製紙となる製紙会社「抄紙会社」の工場を飛鳥山に建設します。これが日本の洋紙産業の始まりとなりました。江戸時代からの「仮装・鳴り物・音曲おかまいなし」の伝統にのっとり、歌舞伎好きの人々が仮装して繰り出し、夜になれば公園中に裸電球が巡らされ、その灯りは赤羽からも見えたとされています。
 昭和初期に入り、戦争の足音が響くようになってからは、飛鳥山も様変わりしました.戦争ということでやむを得ず、国民の体育向上のため桜の木を切り倒してグラウンドへと整地されてしまったのです。
       
 
   

 戦後、飛鳥山公園は市民の憩いの場に戻りました。桜の季節には、時代を超えてなお続く行楽客の賑わいに包まれます。
 現在、公園内には、渋沢栄一の足跡や史料を展示した「渋沢史料館」、北区の歴史や文化を紹介する「飛鳥山博物館」、世界でも有数の紙専門の展示がある「紙の博物館」の3館が併設されています。
 また公園内には噴水のある多目的広場、こどもらんどなどの施設や、幕末の学者、佐久間象山の碑、青淵文庫などの文化財も残っています。
 桜香る飛鳥山は平安の世より連綿と続く伝統の薪能を開催するにふさわしい、歴史ある地と言えるのかもしれません。
 
都電の走る飛鳥山風景
 
     
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